2022年夏頃の周遊経験だが、山口県を旅したことについてやっと記録する。ずっとサボっていたが、やっと筆を取れたことには主に次の理由があった。
①文章と共に旅の記録を発信することで、スマートフォンに残っている写真のデータを整理(削除)する。そのことによって、私の思い出が霧散しないようにしつつも、スマートフォンの容量を解放する結果を得る。
②友達が山口県の旅を発信していた記事を見たことで、いろんな気持ちが湧いたが、まあ結論からすると自分も刺激を受けたため何とか文章としてアウトプットしたかった。
これらをもとに、山口県内で行ってきた場所に関する周遊の記録を綴る。
周遊ルートは次の画像のとおりだ。

(自作地図)
※注1 行き〜は旅の序盤で通ったルート、戻り〜は旅の後半に戻るため通ったルートである。当時は名古屋が自宅であったため、このような移動ルート取りになった。体力と運転スキルには自信があり、タイパとコスパをなるべく重視する家族が運転する車で旅をした。前後の日程と次の街への移動を考慮しているため、一つの街における滞在時刻はそれほど長くはない。ちなみにコスパは、まあまあ手元資産が潤沢な状態で妥協できる範囲で重視するといった形なので、本当のコスパ100%とは言えないかもしれない。投資できる日にちと交通機関にもよるが、他の方からこのルートを再現していただくことはオススメできない可能性も高い。旅は自己判断とご自身の調査、旅において重視したい要素の棚卸しや優先順位の取捨選択が重要ではと私は考える。
※注2 ゲルインキボールペンで記載した街が回ったり泊まった街である。周南をボールペンで記載したが、よくよく考えると防府で宿を取った気がする。地図で見ると岩国から防府がそこそこ離れているように見えるし、周南が結構広いので感覚と記憶が狂う。シャーペンで書いた街は「色々厳しい現実の条件を乗り越えて、遠い未来でも絶対行ってやるぞ!」と思っている街である。 続いて訪れた街についての記録を書く。よく考えると3箇所だった。ちなみに防府はホテルのみ取った都市である。
■岩国
吉川家が発展させた街、岩国。吉川とは?毛利家と関係が深い武家氏族。毛利家といえば色々あるが、関ヶ原の戦いで西軍総大将、つまり豊臣サイド(石田三成を挙げれば分かりやすい)に付いていた毛利輝元が有名。当時の家臣である吉川広家、また小早川隆景が東軍(徳川家康サイド)と通じており、東軍の勝ちを見据えた家臣の策によって、毛利は戦いに乗り込まず西軍が負けたらすぐ兵を引いた。戦わずしていくさが終わったことは良いものの、西軍総大将として元々動いていた書状は徳川家康の手に渡ることとなった。信用できない危険分子と判断したのか、関ヶ原以前に毛利が持っていた様々な所領は没収され、周防・長門…つまり今の山口県の萩や長門、防府、山口市などのエリアに追いやられる。一方の吉川家には、玖珂と岩国…つまり岩国市をメインとした、今で言う広島寄りの山口県内東部の領域が与えられる(広かった所領が減ったので、封じられるという)。幕府から認められた藩ではなく、だが江戸城に登城はする、一方で関ヶ原の戦い以降毛利家から他の藩のように扱われず、家来のように扱われて幕末まで仲が冷え込む…。
いきなり超大雑把な歴史の話に文章を割いた。ただ、岩国を語るにあたって、吉川家の話は外せない。岩国城は吉川広家が建てた城(※一国一城令で廃城になった時代もあったので、現在の姿は再建後)、錦帯橋は吉川広嘉が架けて、何回か流失しているものの、街の人も力を合わせて架け直した橋。他にも、藩校の跡地に作られた記念館、今の吉川家当主である方が館長さんである吉川史料館…由緒ある歴史が今に生きている街である。
…生憎、旅をしていた当時は、曇っていて岩国城ロープウェイ内部、つまり上空からの錦川のビューがびみよだったり、この日本の夏は蒸し暑いこと、ロープウェイ到着後も復元天守に歩いていく中でへとへとになったり、そもそも滞在時間が短かったり(※食事後、岩国城登って錦帯橋渡ったら終わった)とそれほどロマンには浸れなかった…ような気がするのだが、後から思い出した時の風景が充実していたから、これでいいのでは?と思った。

(大変微妙なロープウェー…上空からの岩国街ビューである)
近隣にある他の資料館の御刀展示が充実している故か、なんかこう言っちゃ悪いがやっつけ感を感じる展示構成の刀剣もあってじわった。

(ちゃんとちょっとした説明がくっついている日本刀もあったが、清光の刀は名刺(?)のみ…)
岩国城まで登る際に乗ったロープウェイ、中にぶら下がっていたご当地キャラ?のマスコットが可愛かった。ちょるるさんだった。なんか私の記憶の中では、鉄◯アトムのようなポーズでぶら下がっていたけど、多分違うな…と思いつつ再現落書き。

(空を超えて〜ラララ 岩国城行くぞ〜)
ちなみにこのロープウェイ、後から調べると山口県内で珍しい第3セクター鉄道さんが運営しているとのこと。
錦帯橋は独特の渡り心地であった。傾斜が急であり、バランス感覚がイマイチである私はヒヤヒヤしながら途中まで渡っていた。重心を低くして、よちよち気味に歩いていた記憶。

(※当時の私、歩くのに必死で、橋の上の写真は撮らなかった模様…)
途中までというのは…前後の日程があったことが半分、そして実は橋の上からの景色は途中で少し飽きていた…とここまで正直になってもいいのだろうか?!(他にオブラートにいい表現が見当たらなかった)。曇っていて岩国城があまり橋の上から見上げた岩国城が映えなかったこともあるかも。逆に、遠くから橋を眺めたり、下から橋を眺めることで、私としてはより芸術的な風景が見られると思った。木造アーチの内部と、外にさらけ出された街の対比。そして、川の豊かな小石から感じる自然。視界の中にそれぞれ違う属性のものが映る景色は、とても心地良い。


岩国つながりでシロヘビの話も。リアルの爬虫類…いや、亀とかイグアナとかずんぐりした子はまだ可愛げがあると思うのだが、蛇は苦手だ。あのニョロニョロ感・舌・ギョロ目の3コンボを見て、虫のような何とも言えないおぞましさを感じるのだ。岩国にしかいないシロヘビさんがいくら大人しい天然記念物でも見に行こうと思わなかったのはその理由。
一方、ご当地ヒーローの「ハクジャオー」はなかなか良いコンセプトだと思う。シロヘビをモチーフにしていて、正義の味方/神聖さ/光属性を感じさせるため、ヒーローの作りとしてもぴったり。テーマソングも前向きな歌詞に格好良い曲調で何回か聴きたくなる良さ。今もそうだが、今後も度々当ヒーローの情報はチェックしていく。 (以下、テーマソングのYoutubeリンク引用)
総じて、この街でしか見れない魅力というか、エピソードに溢れたところだった。次に訪れたら吉川史料館、岩国徴古館に行ってみたいと強く願い思っている。

鵜飼が有名という点も親しみが持てた
(かつて私が住んでいた名古屋市から程遠くない岐阜市も、鵜飼が有名。あちらは長良川の鵜飼。)
■美祢
美祢といえば秋吉台と秋芳洞。秋吉台と秋芳洞を見に訪れた街である。
秋吉台は、日本の3大カルスト台地で、その下に広がり生み出されたものが秋芳洞だ。カルスト台地は、サンゴなど生き物の死骸によって生み出された石灰岩が雨などによって長い間浸食され、凹凸のある地形を作ったもの。ところでこのように秋吉台を作った雨水は石灰岩の割れ目から流れて地層を浸し、どんどんその割れ目も大きくなっていくことで大きな洞窟のようなものを形作っていく。その洞窟が秋芳洞。
前後の日程がある中で洞窟を往復するには結構時間がかかるので、やや駆け足気味に洞窟を完走したという記憶。(※父に先に商店街側の出入口にゴールしてもらい、そこからシャトルバスで反対の黒谷口に戻ってもらって、車で再度商店街側の出入口に来てもらった)

(地下水が作ったそれぞれの見どころの名前は覚えきれず、写真ばかりが積もった点が惜しい。秋吉台のリーフレットを見たところだと、これは「クラゲの滝のぼり」か「千畳敷」のいずれかと推測…。

ここは「百枚皿」という名称がついている。海外の事例だが、トルコのパムッカレを彷彿とさせるつくりだ。
生き物を発見することもできるらしいが、どうにも見逃した模様。
一方、駆け足で見ても(※往復はキツいというか、飽きるかもしれないが…)スムーズに行き来できる状態で、洞窟なので夏は涼しくて快適、且つ歩道が整備されていて歩きやすかった。

(周遊で感じる危なさとか怖さがなく、でも自然はきちんと守られている)
秋吉台はもう少し石灰岩がむき出しになっている風景を見れば良かったのだが、「秋芳洞カルストロード」と呼ばれる3桁県道を車で通行しないと見にくい模様だと推測した。写真に残した、展望台からの風景は「いいけど、何か物足りない」気持ちがしたり、これで妥協していいのかもなという気持ちもする妙な1ショットになった。(※この展望台は、洞窟の途中の時点でエレベーターで地上に上がり、少し歩いて行った所にある)

(ドリーネとウバーレを比較できるほどに、じっくり見れてはいなかった…この角度でのみ眺めていたので)
そんな美祢だが、この文章を書いている2024年11月時点、自然が見どころの観光地であること以外の街のいわくをとある文章を通じて知った。美祢は、セメントにも加工できる石灰が取れる。山口を発祥としたとある大企業や、地元の企業は美祢の天然の露鉱から石灰岩を採掘しているらしい。採掘された石灰岩は、例えば某大企業だと宇部にある工場に運ぶための専用の道路があり、巨大なトレーラーが何回も往復している。ストライキなどが多かったので、鉄道輸送はとりやめてこのような大型トレーラー輸送になったらしい。が、公式の鉄道輸送路がストップしても、貨物だけでなくJRですらも無人駅が多いような(※美祢駅は無人駅と聞いた)状態になっても、街は大昔の歴史(自然の姿)も、人が働き続けてきた歴史も残しているのだ。寂れた街(石灰を採掘しているセメント工場付近エリア)にアクセスできるかどうかは分からないが(→正確には、アクセスすることを選べるかどうか分からないが)、秋吉台の開けた地上の風景は、もう一度見たい候補ー見れるといいなと考えている。
■萩
萩といえば長州藩。幕末の歴史の中で、名の知れた長州の様々な人々がこの街をルーツとしている。吉田松陰、伊藤博文、高杉晋作、木戸孝允…。パッと名前の出る人々を先に挙げたが、それ以外にもたくさんの人々がこの土地で国のための活動をして、歴史に名を残した。
歴史面でのいわくの多いこの街は、エリアを選べば徒歩での周遊が可能だ。また、この時はたまたま友達と旅ができる幸運に恵まれた。各々家族がドライビングする車で送迎してもらい(!)、目的地に着いた後徒歩で平和な街を周遊。しかも、当時は非常に暑い日が続いた中、この日は曇った空が目立つ一日で、それでも周遊に問題ないと感じられる日だった。
肝心の萩旅だが、撮った写真が圧倒的に少ない。誰かと過ごしている時に写真に夢中になってもいいのか?という申し訳なさがあって、進んでカメラをばしばし出していなかった。また、当時はパンデミック禍で、「私だけじゃなく、【友達までもが】外部からの観光客として悪目立ちして後ろ指さされるのはイヤだ…心の中に思い出は頑張って持ち帰り、一緒に過ごすことに集中しよう」という妙な正義感というか、自己保身意識も微妙にあった。気にしすぎだったというか何というか…。そのため、撮った写真の数が圧倒的に少ない。勿体無いからまた山口を訪れることをすぐ考えている心の持ち様である。この事情もあるので、萩の地図と行ったことのあるスポットの説明を交互に読みながら、テキストで思い出を掘り起こしていきたい。
【萩ぷりん亭】
なめらか〜な食感のプリンが名物である、地元のスイーツ店。普段から味比べができるほどにプリンを食べている訳ではないので、「美味しい」以外の感想が思い出せないが、ともかく美味しかった。(文面が意味不明になってしまった)
もう少し真面目に、且つ「プリン」のお店ということに絞らずに感想を書くと、他の城下町近くの家屋と統一感のある、趣のある建物にて営業をされていることが特徴的だった。
後述する木戸孝允さんの旧宅からも遠くなく、高杉晋作さんの生誕の地付近の広場からも遠くない。まち歩きをして一休みしたい場合にも、ここからまち歩きの準備をしようと思った時にも訪ねやすいスポットである。(当時の私らは後者で、ちょっと腹ごしらえをして街歩き、という周遊プランを取った)
プリンの感想にまた話を戻すと、味が豊富で、見た目も映える。(このブログ書く時点で何味の方を食べたのかすらおぼろげだが、確かマンゴーを食べた…はず?(記憶をなくしてやばい))深い海の色をしている渚ぷりんは、ラムネ味とのこと。

同じ萩市にある菊ヶ浜を連想したが(※ぷりん亭の後に行った)、菊ヶ浜はもう少し薄いブルー…緑もちょっと混じったような水色の海だった。…いや、曇っていたから海も一緒に薄く見えていたのかもしれない。
私が見た記憶をもとに比較すると、萩から車をもう少し走らせて行くことのできる島根県から見える海の色が、どちらかというと渚ぷりんの色に近かった。

(参考 島根側で見た海 益田〜浜田あたりから出雲大社に向かう道の途中で撮影)
やるやる詐欺ではなく、次の機会を作って萩の夏みかん味のぷりんも食べてみたいものである。
【菊ヶ浜】
先に少し言及した萩の海岸。ここの松原が歌にも詠まれたり、いろんな島が沖合に見られたり、水質の良さで夏は海水浴で賑わうらしい。風光明媚且つ地元の人にも愛されそうな海岸だった。

(とても透明な海の色)
当時はパンデミックの関係もあって人影がまばら、曇っていたので歩くには良かったがどこかさみし〜げな海だった。

今の夏には賑わっているのではないか(そうであった方が良いだろう)、と思う。
【明倫学舎】
ここだけは建物の外観を撮っても良かったなぁ…と後悔した。
当時の山口観光において一番良かった施設だけど、ほぼテキストしか記録に残せない点が味気ない。何より、旅行した時点から2年も経っているので、自分も文章化して語れるくらいの具体的な思い出が曖昧になっている。ただ、曖昧だ〜と思うままタイピングする手を置いてしまうことは、この記事の趣旨にそぐわない。 幸いなことに、当時友達と一緒にスタンプラリーに参加し、現地でもらえた「何でもノート」の末尾に紹介文としてとても良い説明文があったので、そのまま引用しつつ思い出を掘り起こす。

(ご当地の萩にゃん。というキャラが可愛い)
以下、「何でもノート」文末の紹介文の引用:
萩・明倫学舎とは、萩藩校明倫館の跡地に建てられ、平成26年3月まで授業が行われていた旧明倫小学校の木造校舎です。
萩藩校明倫館とは、江戸時代に萩藩士の学問や武道の修行、人を育てることを目的につくられたお侍さんのための学校です。
藩校の大きさは日本最大級で、その名は全国に知られていました。
この紹介文の内容の通りであり、明倫学舎には幕末の歴史や、当時の実物資料を紹介する展示館・明倫小学校を紹介する展示や当時の姿を想像させる復元教室などのスペースがある。
更に、この施設自体が萩の街案内の拠点として、街の産業遺産や自然遺産の案内場所にもなっていたり、現地の人々も使える場所(会場・会議室など)があったり、さらに移住相談所まで備わっているスポットである。
ともかく一つ一つの展示内容のボリュームが多く、幕末に関する説明箇所には目で見る展示だけでなくタッチパネルでの体験や映像などが見れるコーナーもあった。
同館はホームページおよび前述したノート内の説明文でも、「伝えたい【物語】がある場所」をキャッチコピーとしている。かっこいい。私が好きになる場所だ。言うだけじゃなくて本気でまた行きたくなっちゃうじゃないか。 現地の方にオススメしてもらって行った場所だが、確かにここはオススメできる。街のシンボルだなぁと今も振り返って思う。
【萩の人々の風景】
吉田松陰さんは、彼が持っていた志、(今になって色々な見解が分かれているらしいものの)行っていた教育とその教育を受けた人々、日本全国を旅し自らの思想を形成したこと等でよく知られている。

萩の街巡りバスのうち、同氏ゆかりの神社や松下村塾を巡回するバスの名前が「松陰先生」と呼ばれているらしく、如何に今でも街の人々に大切にされているかがわかる。
吉田松陰さんを祀る松陰神社のホームページに、以下のような同氏の語録が記載されている。
以下引用:
心はもと活きたり、活きたるものには必ず機あり、機なるものは触(しょく)に従ひて発し、感に遇(あ)ひて動く。 発動の機は周遊の益なり。
現代語に訳すると、
心はもともと生き生きしたもので、必ず動き出すきっかけがある。そのきっかけは何かに触発されて生まれ、感動することによって動き始める。旅はそのきっかけを与えてくれる。
私が心が動くきっかけを旅から探したのか、そこまで意識していたのかは自信がない。ただ、確かに結果として心が動くいくつかの旅が、これまでの記憶の中にあった。思いがけず歴史の中の人に自分の人生を肯定してもらった。
ちなみに、明倫学舎周りのエリアから松下村塾まではやや距離がある…暑くなければ自分の健脚で十分歩けるのだが、夏だし友達と同行しているし…ということで当時は行けなかった。また萩に行かないとという理由が積もってしまった。
なお維新関係の萩関係者の中で、直接ゆかりの地を訪れることができたのは木戸孝允さんの旧宅である。できた、というか、松陰さん以外に一番事前知識がそれなりにあったのが、木戸孝允さんである… (※ちなみに下記の木戸孝允さんは、明倫学舎内にあったパネルにいた。旧宅の木戸さんは直接足を運んでいただいてのお楽しみ)

最後に萩の風景で今も忘れられないのが、夏みかん。木戸孝允旧宅の庭の中にも、夏みかんが実る木があった。
廃藩置県によって職がなくなった士族を救うため、夏みかんの苗木が大量に配られ、街中で大量に夏みかんが栽培されだしたという。萩自体が砂丘の上に築かれた街なので水はけがよく、天候も暖かいのでよく育つ。且つ、夏みかんの苦手とする強い風を避けるための土塀や白い壁と塀も今まで守られてきたため、萩の街の構成は昔から今まで大きく変わることがなく、古地図を見てもそのまま歩ける場所になったとのことである。
もらった夏みかんの砂糖漬けを美味しく食べた思い出があるが、美味しさ以上にありがたくなる。そんな果実だった。
■振り返り■
概ね3つの街を回ってきて、それらに対する思い出を書いただけだが…長い!思ったより長いぞ!という記事ができあがった。
いや、正確には、思い出だけだと文章にするほどの記憶が曖昧なところもあるので、そこは改めて街のことを調べ直したり、他の人々から聞いたことを通して思い出をブラッシュアップして書こうと。その結果としてこのような形になった。後、書く内容と、この記事には含めないことにするかといった内容の線引きに時間がかかったりした。
思い出をブラッシュアップするために、都内のアンテナショップである「おいでませ山口館」からもいくつかの案内リーフレットを持ち帰って参照したりもした。
案内リーフレットについては、秋吉台と萩のガイドで色々思い出せたうえ、大きめの観光ガイドマップもわかりやすかった。

山口県全体に対するでかいガイドマップの特徴として、道路状況がどうなっているのか(何車線で車走行しやすいのか〜)なども書かれているし、主要な文化施設や商業施設の位置もきっちりマップ上に表示されている。家族と車で旅をしていると、「街から街の距離感」「道路の特徴」が知りたかったんだけどな…って思う場面が非常に多い。私自身も未来にでも運転免許を取ろうという目標そのものは捨てていないので、様々な意味で実用的な案内リーフレットだった。
そんな山口県だが、2年経った今、ニューヨーク・タイムズの行きたい街の上位に山口市がランクインするといった形で話題になっている。一方、別のWebメディア(日本国内のものだった)を見ると、全都道府県で見ると県の観光客人気そのものはあまり奮わないという話もあったりする。本当はどんな姿になっているのだろう、という気持ちもあって、ますます再度行ける機会が待ち遠しい。
また、数年前、パンデミック禍により刀剣乱舞をはじめとした日本国内のコンテンツに目を向け始めた頃から興味を持った「まちづくり」「街の強さ」という観点でも、この県には色々と思うこと・ふわっと気になったことがある。
山口県のみならず他の県にも言えることだが、私の人生プラン・私の特殊な生活背景などもあり、よく話題になっている移住とか(※そもそも転職で引っ越したばかりなので、転勤しない限りはまず考えない)、私が直接地域創生の責任を背負ったり、その目標につながる活動をすることは短中期的には難しい。けれども、何らかの形で、私はこの街と縁がある、いわば遠く間接的には関係人口と言える人間として居たい、という意識で、県や県自体の取り組みに興味を持っていきたい。県産の良いものは消費したい、と思っている。(観光が本当に街の人の支えになっているか何とも言えないし、これはちょっと申し訳ないのだが)
物語が本当にあった、良い街でした。

